清水哲の今現在の仕事や野球チームは?結婚した妻やPL学園時代の成績も!

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「消えた天才」で桑田真澄さんの

野球人生を変えたとして出演した

元PL学園の高校球児、清水哲さん。

今現在の野球チームや仕事などについて

調べてみました。

桑田真澄が憧れた天才は清水哲

清水哲

出典:https://kazuki630810.blog.so-net.ne.jp/2016-02-07

桑田真澄さんが憧れ続けた天才は、

PL学園時代の1歳上のピッチャーだった清水哲さん。

しかし、天才投手といわれた清水哲さんは、

大学に進学後、野球界から姿を消しました。

「桑田よ、俺を殺してくれ……」と

桑田真澄さんに二人きりの時に言ったそうですね・・・・。

それは、もう野球が出来なくなってしまったから

だったんですね。

いまわしい事故が起きたのは、清水哲さんが

同志社大学1年生のときの試合でした。

フォアボールで一塁に出た清水選手は、

次のバッターのカウントが2―1から

2塁にスタートを切ります。

走りながらバッターを見ると

見送ったのが見えました。

「なぜ、打たないのか?」。

そんな事を考えながら

2塁へヘッドスライディングを試みました。

その時に、

相手のショートがセカンドに入ってくるのが見えます。

次の瞬間「ゴキン」と言う鈍い音が!!

相手のショートのひざに清水さんの肩が当たり、

頭からグラウンドの上に落ちたのです・・・。

清水さんは近畿大学付属病院救命センター

に運ばれ一命を取り留めます。

病院の医師は、

「首の骨の4番目と5番目が折れています。」

と言ったといいます。

この時清水哲さんは、

「首の骨が折れているといっても、

手や足の骨折と同じようにじきにくっついて、

骨さえくっつけば、元通り野球ができるだろう。」

と考えていましたが、

事故から8日後、手術が行われて成功したものの、

2ヶ月が過ぎても指は動かず、

手足の感覚さえも戻りません。

そして清水哲さんは手術から3ヶ月後に、

勇気をふるって主治医に聞いたところ、

「今の医学では治すことはできない。

おそらく一生寝たきりですごすことになる。」

と宣告されたのです。

試合での接触事故により、

脊髄を損傷したために身体の運動や知覚を

司る神経が傷ついてしまったため、

一生障害を抱えることになったという

現実をつきつけられた清水哲さん。

その後、

リハビリの為に星が丘厚生年金病院へ転院し、

1年2ヶ月もの間リハビリに励むも、

不治の為自宅療養を開始されています。

事故により大好きだった野球が

出来なくなってしまった清水哲さんは、

ほとんど錯乱状態に・・・・。

ただ、絶望が体の中を駆けめぐるだけだったといいます。

しかし、そんな清水哲さんが生きる上で

支えになったのが桑田真澄さんと、

清原和博さんだったといいます。

出典:サンスポ

PL時代の同級生らが中心となり、

清水さんを励ます「哲和会」を結成。

お二人はよく清水哲さんの元を訪れていました。

桑田投手がプロ入り1年目の時に

清水哲さんのところにやってきて、

「哲さん、これをもらってください。」

と憧れの巨人のユニフォームと帽子を

持ってきたそうです。

小さいころから巨人ファンの清水哲さんにとって、

このユニフォームに袖を通すことは夢だったのです。

誰よりも野球が好きだった清水哲さんに

とって、憧れのプロの世界で活躍し続けた

桑田真澄さんと清原和博さんの存在は、

まさに生きる希望だったんですね。

もちろん自分がいるはずだった世界に

行けない悔しさはあったでしょう。

でもそんな二人がいつも自分を気にかけて

くれている、自分の想いを乗せて

プレーしていると感じられたから

大きな事故後も前向きに生きてこられたのではないでしょうか?

そんな清水哲さんのプロフィールや

今現在のお仕事について触れていきたいと思います。

清水哲の年齢や出身などのプロフィール

清水哲

出典:コーエンプラス

名前:清水哲(しみず てつ)
生年:1966年4月9日
年齢:53歳
出身:大阪府守口市
中学:守口市立八曇中学校
高校:私立PL学園高校
大学:同志社大学文学部中退

清水哲さんは小さいころから野球が好きで、

将来はプロ野球選手になることを夢見ていました。

少年時代は清水哲さんの父が監督だった地元の

守口セネタースにてスパルタ教育を受けていたそうです。

他の子に指導するには自分の子を厳しくしないと、

示しが付かないということもあったでしょう。

そんな厳しい指導のおかげか、

清水哲さんは小学校6年生時には、

球速125キロも出ていました。

普通の小学生では球速80~90キロ、

あの大谷翔平選手は小学校5年生で110キロだった

ことから、

ものすごい強肩だったことがわかります。

そんな清水哲さんに影響を与えたのが、

PL学園が夏の選手権大会で初優勝した時です。

テレビで見ていて「負ける」と思ったところから、

粘りに粘って最後には勝ってしまう。

そんな勝ち方を見ていて、子供ながらに

「高校はPLに入って甲子園に行く!」

と心に決めていたといいます。

清水哲の野球の成績は?

清水哲さんは投手として中高で大活躍されています。

【中学時代】
準硬式野球大阪府下大会二年連続優勝投手

【高校時代】
第56回選抜高校野球大会準優勝
66回全国高等学校野球選手権大会準優勝
日本高校野球選抜日韓親善試合の韓国遠征メンバー

清水哲さんは、

プロへの登竜門として掲げた甲子園で、

高校3年の春と夏に準優勝を果たします。

特に、高校3年生の夏の選手権大会の決勝戦、

9回裏、3対4で負けている時に放った

同点ホームランは、

小さいころにあこがれた逆転のPL、奇跡のPLを、

清水哲さん自身が生み出したことは、

今でも良き思い出として残っているそうです。

清水哲

出典:京都新聞掲載「ともに生きる」

清水哲の結婚した妻は?

前述したように、

清水哲さんは大学1年生の時の試合中の事故により、

両手両足が動かないという障害を抱えることになりました。

そして事故から8年後、

清水哲さんの父が脳梗塞で倒れ、

今まで世話をしてくれていた母親が

父の看病をする事になり、

清水哲さんは、一人暮らしを余儀なくされます。

一人暮らしとはいえ、

助けは必要なので、ホームヘルパーさんが必須です。

清水哲さんはそんなホームヘルパーとして

派遣されてきた現在の妻となった由美子さんと

2003年3月に結婚されています。

由美子さんの空いてる時間が、

ちょうど清水哲さんが必要としている時間

という事で、

一緒に外出を多くするようになり、

一緒にいてる時間が長くなって、

自然と、お互いに気心が知れるようにもなったそうです。

結婚するにあたり、清水哲さんは、

介護の大変さが身にしみている母や

家族から大反対に遭ったのですが、

「障害者も人間であり、結婚する権利はある」

と考え、結婚することを受けてくれた由美子さんとの

結婚を通しました。

誰も障害を持ちたくて持った訳ではなく、

体に障害があるというだけで結婚が

できないというのは、

どうしても納得がいかなかった清水哲さんは、

障害者が簡単に人間らしく生きていけるように

なって欲しいと願っています。

清水哲の今現在の仕事は?

清水哲さんは事故後、

口にくわえたスティックでパソコンのキーを打ち、

9年かけて書き上げた著書

「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」

がベストセラーとなりました。

今現在はその著書を元にした講演活動をされており、

すでに80カ所以上での講演実績があります。

また、父親が創設した少年野球チームであり、

自らも所属していた守口セネタースに

土曜日と日曜日などに顔を出し、

指導されているそうです。

清水哲さんのお父様はすでに

ご存命ではありませんが、

守口セネタースに行って野球と関わると、

野球を教えてくれた

お父様がいつもそばにいてくれるように思えるそうですよ。

清水哲さんの人生や桑田真澄さんとの交流を、

著書では、TVよりも詳しく描かれています。

また、

清水哲さんの日常生活、

成長されていく姿が克明に綴られている

こちらの著書も出版されています。

野球に対する愛情や深く、

表舞台を踏まれ、エリートコースを

歩んでこられた清水哲さん。

それだけにあの事故はショックだったことでしょう。

しかし、

プレーすることはできなくなりましたが、

その後も、

野球を愛し続けられている姿勢は変わりないでしょう。

高校野球の監督をするのが

目標だという清水哲さんですから、

いつの日か監督として甲子園に舞い戻ってくる日もあるのかもしれませんね。

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